絵の依頼を貰う時、できればイメージの音を下さいってお願いをしている。
音があると、うまくいくと自動筆記みたいに音が私を操縦してくれることがあるから、楽ちんなのです。
「私の中にサラスワティの音がない。その音を聴くためにあちゃの力を借りたい。」そんな依頼で始まったこの絵で、私はずっと「源の一音」に繋がろうとしていました。
マントラやラーガ、インドからうまれたサラスワティを表す音のいくつかの存在を知ってはいるけれど、それはまだまだ学びや経験の浅い私には付け焼き刃の知識でしかなくて。
だから、知識よりももっと根源的なものによってこの絵と繋がっていこうって決めたんだ。
「その音を今ここで鳴らすことはできなくても、あなたがその音を想う時、すでにその音は鳴っている。」
私が音の学びの中で出会ったお守りの言葉。
それを握りしめて歩んだ、女神様との蜜月。
音は耳で聞いているものだっていうマインドセットを眠らせていく。
本当の音を聴くことの妨げになっているのは聴覚かもしれなくて、それならばと視覚や触覚なんかを全開にして音を捉えようとするけれど、そうやって深めていくとある時点でむしろ五感を眠らせた先、第六感のようなもので捉えることができる音感覚に気付く。
さらにそこを研ぎ澄ませていった先、第六感も眠らせて魂そのもので受け取るような音に出会う。
音のない音。それは振動ですらなく、ただそこに在るもの。
風なき呼吸。
凪のように凛としたそれは、透明な水のようにどこまでも浸透し。
最果てまで見渡せるような澄んだ透明の底に、一粒の音がある。
私はこの絵の制作中にその一粒を手にすることは叶わなかったけれど、それでいいんだ。
その一粒は、この絵を捧げた彼女のためのものだから。
それがどんなものなのか分析する必要はない。
それが在るっていうことが腑に落ちたから、それで充分。
依頼をもらった時に「水のイメージ」って言われたことなんかも思い出す。
絵の左上の渦の中心、そこが源。
そこから螺旋を描いてヴィーナに注がれ、そこでプラスとマイナスの振動が生まれて(ヴィーナに描いた太陽と月のように。ここから二元の世界の音が始まる。)そこから蓮の花や孔雀の羽のように全方向に広がっていく。
全方向に広がりながらも同時にそれは収縮し、一粒の音が水面を揺らし、無音の世界へとかえっていく。
そんな絵。
この絵の経過を思い返していて、なんと半年間も向き合っていたんだってことが判明した。
音のない音と向き合っている時間は、もうどうにかなってしまいそうなくらい幸せなもので、そこに繋がっていたかったからこのまま完成させたくない気持ちもどこかにあったような気がする。
どうしてもこのタイミングでお渡しするしかない!っていう日が突然やってきて、最後は勢いで完成させた。
絵を描きながら、絶対直接手渡ししたいって思ってたの、叶った。
もっと緻密にやりたかったところもあるけれど、今となって思えば緻密にやりすぎると透明感や軽さがなくなっていくからこの辺りがちょうどいいところだった。
全ては女神様の意志、だったのかも。
依頼をもらった時に見せてもらった彼女の祭壇にはバリからやってきたクリシュナ神の
神像とチベットの神様グリーンターラのタンカがあったから、このサラスワティも祭壇の中で調和するようにバリヒンドゥーとタンカのエッセンスをやんわりと入れています。
モチーフは古典だけど表現はフリースタイル!
私の好きなやり方で。
完成したサラスワティを祭壇に飾った写真を送ってもらったたけど、神聖な祭壇に私の絵が置かれていることになんだか恐縮してしまって調和してるかどうかは正直まだなんとも判断できない。
神様の絵を描くこと、それはあまりにも私の身に余ることで、頼まれない限り描くことはないと思う。
同時に、頼まれるということは私にそれを表現するお許しが出たんだな、というふうにも感じていて。この絵を描かせてくれたことに、ただただ感謝です。
こんなふうにあえて説明しなくてもいいのかもしれないし、こうして言葉にすることで失われてしまうこともあるのかもしれない。
なので、どうか言葉よりも音そのものとして、この絵を受け取ってね。
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